「なぜ対話できなかったのか?」
これは現代の話でなく、150年ほど前の明治維新の頃の話。
こちらのブログ参照
しばやんの日々
慶応4(1868)年3月29日、新政府の奥羽鎮撫使が東北諸藩に対して会津・庄内の討伐を命じている。
それに対して、仙台藩や米沢藩が妥協案を出しながら、奥羽鎮撫使は一切対話に応じなかった。
それで、奥羽越列藩同盟が誕生して、薩長との戦いは避けられなくなる。
単純に言えば、なぜ対話に応じられなかったのか?
ということになる。
…会津藩は家老級3名の切腹と領地削減にて降伏を申し出たにもかかわらず、参謀の世良がこれを拒否した…
(上記ブログ しばやんの日々 より)
そこまでしてるのだから、応じても良かった話だ。
奥羽越の諸藩は次は我々だと危機感を募らせたのも当然だ。
なぜ対話に応じられなかったのか?
なぜか?
これは落合莞爾氏の歴史観で説明がつく。
新政府(薩長)は、北海道まで行かなくてはならなかった。
それは簡単にいうと、金の移動やアヘンの取得のためだ。
もう次の日本が帝国主義と戦う準備を行なっていたのだ。
対話に応じていたら、北海道まで行けなかった。
対話に応じてはならない理由があったのだ。
本当のことを知らせずに歴史を説明できればそれも良かったかも知れない。
もうこれからは歴史を変えないと、未来が切り拓けないところまで来ている。
と私は考えている。
今までの東北蔑視の史観では日本の未来はないとさえ思う。
それはきっと蝦夷征伐さえ、同じ理屈だった可能性を感じた。
戊辰戦争から函館まで行く理由付と蝦夷征伐の理由付は、歴史相似象(形が同じ)をなしているように感じた。(直感だけではある)
そして、「ならぬものはならぬ」の会津藩だったから、それが実行されたとも言える。
自分と他人は常に鏡だから、「なるぬものはならぬ」という頑固な精神性は自他に通じる。
京都守護職の松平容保はこの事実を知って受け入れたはずだ。かといって、家臣の殺されるのを指をくわえて見ることをどんな思いで見守ったかと思うと、言葉にならない。
地政学的に、東北・新潟の奥羽越が犠牲になる形で北海道につながって行く。
今までは上の歴史の延長でここまで来たけど、もう限界だ。
対話で切り開く未来を私の住む福島県の浜通り、双葉郡川内村の近辺では行われているし、
今までの立ち位置重視で対話もできないような関係性では、未来に責任を果たせない。