japan-energy-lab’s blog

日本エネルギー研究所です。福島県川内村に炭増すためにも、木材の可能性について簡単ニュースをはじめてみます。

【自信と勇気、そして生きがい・やりがいの創出を】

 

私の友人のYouTube番組
だからニリザベスはズレているの映像をご覧ください。

www.youtube.com

日本一だった川内村の炭焼を復活させたい!
と本気で思っています。

バカだなあとも思いますが、
歴史を振り返ると、バカが時代を切り開いたのもまた事実。

今年は炭の学習会から行ないます。
テーマは、茶炭・炭アート・炭蓄電池。

今回
Minoru Horikoshiさんにお力をお借りしました。
魂のこもった文章に私自身が励まされました。そのまま抜粋。

現在、森林業に従事されている方々や、これから村の森林資源を活かした事業に取り組まれようとしている方々に自信と勇気を与える契機となり、これらの方々の生きがい・やりがいの創出につながることが期待される。

困難だからこそ
誰もが無理だと言うからこそ
日本一の炭焼の郷復活を
いわなの郷から目指し続けます!

「突き抜ける」

 

人生の上手くいかないパターンを脱したいと、
何が原因なのか探し続けて、コツ塾にたどり着く。

コツ塾

chiisanakotsu.com

 

3年前、継続コツ塾(6ヶ月)参加。
今回コツ塾卒業生オンリー講座に毎月(計8回)参加している。
先日、3回目が終わった。

確実に変化を実感できるようになってきた。

今までのパターンからも脱却しつつあるし、
必ず突き抜けられる。

たくちゃん自身が苦労されたからこそ
身につけてきた実践的な知恵と
幅広い分野から集うコツ仲間の存在は
これからも大きな力になる。


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写真は
ワークで使った父母を思い出すもの。
この数日前にぶらっと寄った母が持ってきてくれたバナナ。

3年前のコツ塾時からお世話になった方とのワーク。
あの頃は、
父母のことが思い出せないほど辛いだけのことだった。
今はただただ愛でしか受け取れない。

もう大丈夫だ。

『どこよりも「○○○」がやるべきじゃないか!』

 

 

先日、そうま食べる通信の取材がありました。

相双地域をエリアとするそうま食べ通の

双葉郡初進出の地に川内村、いわなの郷を選んで頂きました。

 

www.facebook.com

 

 

震災後だけでなく、その前から今までの22年間を

守り続けた親方の魅力が伝わる内容になりそうです。

 

普段は私にも見せない部分を、土編集長が引き出して頂きました。

 

これが、そうま食べる通信の魅力です。

食に込められたストーリーを深い部分まで

表も裏も 伝えてくれる。

 

ただただ、うれしい限りです。

 

  乗り越える壁も多そうだけど、だからこそ

  『どこよりも「そうま」がやるべきじゃないか!』

 

「そうま」を別の言葉に変えてもいい。

「わたし」がわかりやすい。

 

それが『グランドに降りる』ってこと。

 

もう2年前の夏、

車座・郡山で土編集長が言った高橋博之さんの言葉

『グランドに降りろ』は忘れられない。

「そもそも」



○○改正も大切ですが、
○○がなくてもいいって考えることも、
大切では?

もったいぶりました。

http://www.prideandhistory.jp/topics/000592.html?mkt_tok=eyJpIjoiWVdNMllXVmlNemc1TW1JMyIsInQiOiJIU0VJb3pZbDBhSWk0cHV4NXFGdEFkeXZHZXRCdXdWWk9qQXMyOHcrQ3RoNEFwTFltK3RSWm5hVHRVXC83NDRsdlNPdFRMYktBVmExMnFXOTJhM3ZcLzVZSm00WnFwUVNzUW9ZTDViZ3ByTGRSZkVSd1AwbUtsR214aTJxb0VWaXN1In0%3D

「汚れちまった哀しみに」



 

誠意と善意との違いがわかりやすい。

 

コミュニケーションのずれの問題とも関わるし、

歴史や文化を知る手がかりにもなる。
何より、自分を省みる機会となった。

中原中也の言う「汚れちまった哀しみ」は、ここに起因するんだろう。

 

以下長いが、「根源へ」執行草舟講談社)p.152〜4を引用する。

 

 誠意は、相対価値で、絶えず変化し、これが誠意だなどと決めつけられるものはない。・・・

 では、誠意と混同される善意とは何か。それは絶対的な正義。つまり、絶対価値としての善を他者のためになると信じて押し付けたり、または、勝手に行うことを言う。戦後に民主主義を移入された時、ほとんどすべての人がこれに飛びついた。平等意識の強い人ほど強く握りしめた。善意を持てば、無条件に自分が秀れた人物になれるように錯覚したのだ。しかし、これが社会的な判断力を失う結果となってしまった。

 善意を振りかざせば、皆正義の人となれる。簡単に自分が正しい人、良い人になれる。この考え方を戦後の民主主義思想は誰でも手にすることができるようにした。したがって現代の日本人は、すべての人が善人、正義の人になったと言っても過言ではあるまい。

 絶対価値は、全く他との相互関係を必要としないから、知らず知らずに、自分が勝手に考えていることだ正義となってしまう。

 昔は善人とは、馬鹿者または役立たずも意味していた。かつての村社会でも、現代社会でも、善人は何か格別の役に立つわけではない。人間関係の上手くいかない者、家庭が上手くいかない者の多くは善人と言ってもよい。

 善人は絶対価値と自分を勝手に同一視し、自己と融合させて、他者には通じない勝手な世界を、個別につくってしまう。神の領域である善を、わかったつもりになっている。

 ・・・

 人を愛すること、人を好きになることは善である。しかし、それをがむしゃらに遂行すれば他者は迷惑する。人を好きになったなら、相手からも好かれるようにする方法論が必要となる。その方法論を模索することが誠意を生む。「初恋は失恋しなければ一人前になれない」と言われている理由はここにある。相手に伝わらなかったことから誠意への模索が始まる。人は初恋によって、それを悟らねば大人にはなれない。初恋は、他者に対する善意の「初押し売り」でしかない。

 昔はこの辺で善意から離れ、誠意の発展を心掛けた。しかし現代は、善意を押し通すままに生きる人が多く、その結果、一人よがりな自己完結した世界を強固に作り上げていく人間が増えている。

 曲がりなりにも善を行いたいと思うならば、他者に通じる形を見つけ出すしかない。ほんの少し、その場、その時、その相手によって修正し、誠意を持って善を行なおうとすることである。

 ところがこの修正がほとんどの場合、表面上、悪の要素を持っているから、人は苦しむ。相手のためになるには、嘘もつかねばならぬし、だまさなければならないこともある。このことによって、人間は涙と呼ぶ、人生の哀しみを知っていく。誠意とは、善意とずれた部分の苦悩を自己の内部にしまい込む哀しみなのだ。

 自分が汚れていく過程の中に、他者を思いやる言動が生まれてくる。そして、どんなに朽ち果てても、他者に通じさせたいと思う心を持つ者を、誠意ある人物と言う。相手に通じるために、自分は汚れなければならないのだ。

 

「私は批評家、評論家を最も嫌う」

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それは、自分が判断の当事者でないにもかかわらず、他人の判断の結果だけをとやかく言うことによる。判断に伴う、他人のかかえる苦しみや悲しみを無視しているからに他ならない。判断力の本質がわかると、批評家や評論家が、如何につまらぬことをしているかも、またわかる。それがわかれば、他人の目から自由になれる。

「根源へ」執行草舟講談社)p.214・215より