japan-energy-lab’s blog

日本エネルギー研究所・関孝男です。 福島県川内村に2013年移住。いわなの郷で働いております。炭焼き・移住促進・成長への興味を元に、全てのエネルギーの活用を研究することを建前に、本ブログでは成長の観点で思いのままに書いています。

「他人事から自分事へ」

 

 

アメフトの話がニュースになり、ずいぶん報道を見た。

 

 

家に帰って、こちらを開く。

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またと思われるかもしれないが老子

 

一脈通じると思った。

 

 

三寶第六十七には、

この世には三つの宝があるという。

慈愛・倹約・天下の先にならないの3つ。

 

 

敢(あえ)て天下の先と爲らず、故に能く器長(きちょう)を成す。

 

この文の解説には
 ・・・
 最新のリーダーシップは、先頭に立って”俺に付いて来い”式ではない。

 最後尾にいて”羊を追う”式になっている。全体がよく見えるからだ。

 一人一人のメンバーのコンディションが良く見えなければ、絶妙なマネジメントはできない。

 

とある。

 

さらに、この三宝なしにリーダーシップを行なったら…という話が出てくる。

 

今慈を捨てて且(まさ)に勇ならんとし、儉(けん)をすてて廣(ひろ)くあらんとし、後(おく)るるをすてて且に先んぜんとすれば、死せん。

 

解説にはこうある。

 

慈愛がなくて勇気のみで行動し、倹約がなくて広く施し、先頭に立つことだけを行なっていれば、死の危険に至ってしまう。

 

 

死という言葉を使った最大限の警告だと捉える。

 

リーダーシップは小手先ではできないことを知る。

 

こちらは敢えて、

この「死の危険」を察知する大切さを強調し、
「見るまえにとべ」の詩をリンクとして貼る。

 

ameblo.jp

 

 

アメフトの話に戻る。


日大フェニックスの故・篠竹前監督は、

学生と寝食を共にして指導していたと聞く。

どう考えても内田現監督は学内でも地位が高いことを聞くと、

そういうタイプではなさそうだ。

(事実関係を確認していないことを付記する。)

 

つまり、篠竹さんは”俺に付いて来い”式であっただけでなく、
最後尾にいて”羊を追う”式だったろうことを想像する。
学生のことを熟知していただろうし、人間的なやりとりも一つ屋根の下であっただろう。

であればこそできた絶妙のマネジメントがあったに違いない。

 

それと同じことを内田氏はできるはずがない。

フィールド場の振る舞いだけ篠竹氏の真似をしても、

それ以上に長い時間をすごす宿舎でのことは真似できなかったからだ。

 

そもそも、篠竹氏のような指導は現代ではできないのだ。

それは家族のような関係性、言い換えれば一緒に過ごす時間を持って成り立つことだから。

 

その中で倹約。

自分は食べずとも、多く食べさせるとか。

自分のものを施すとか。

それはあっただろう。

 

昔のやり方が今は通用しない

と言われるが、上の意味で解釈する。

 

篠竹氏が生きていれば、きっと現代でも成り立つと思う。

 

よく言われることだが、

Doing(やり方)でなく、Being(在り方)から真似る必要がある。

 

それはきっと古今東西関係ない。

 

 

 

話を他人事から自分事に移す。

 

 


翻って私は、

内田氏のことを偉そうに言える分際ではない。

子供に対してひどいことをしてきた。

 

敢えて言えば、今回のことは他山の石だ。

 

老子三宝に挙げられる

慈愛・倹約・天下の先にならない

のどれ一つたりともできていなかった。

 

慈愛も自分を守るためだけに使ったし、

倹約の発想もなかったので広く施すことも真似事だけ、

最後尾から一人一人を見ることもなく、ただ自分の主張ばかりを伝えてきた。

 

自分の主張だけでは、相手を裁いて終わってしまう。

これが正しい、これは正しくないの二元論だけで人が育つわけがなかった。

 

そうだ。

自分の説ばかりを説く

ならず者だった。

 

本当は、私が子供の頃ただただ押し付けられたことを経験してきたが、

いざ自分の段になって何一つ生かせなかった。

人は自分がされたことをするとはよく言ったものだ。

情けない。

 

別の視点で言えば、

信頼関係の大切さはその当時よく聞いた。

しかし、私には信頼関係というものが言葉でしか理解できなかった。

実際に経験しなかったからだ。

 

かと言って、それを言い訳にできない。

それは、上の詩にあるように、

見るまえにとべと言っても危険を察知することは必要だったから、

未熟としか言いようがない。

 

思い起こせば、

昨日はあの若者の記者会見に心を揺さぶられた。

 

だから余計に、

自らの愚かさもまた恥じ入る。

 

 

昨日のCafe學校でも

「他人事から自分事へ」という話題が出た。

 

他人事だから客観視することもできるが、

自分事に落とさなければ真の学びにはならない。

 

 



その点でまだまだ自己認識が不十分だと反省する。

一方で、

やっと
過去を振り返る「その時」を迎えられたとも自負する。

 

そんな情けない自分も受け入れつつ、今日もまた歩みを進める。

自分を責めることは、反省ではない。

 

それこそが

運命を愛すること

後陣に示す生きる姿勢

自らが生きる意味だ

 

生き恥を晒してでも。