japan-energy-lab’s blog

日本エネルギー研究所・関孝男です。

「ドクスメ清水店長の話」

 

 

リアルインサイトの「池間哲郎一日一言」
(毎朝5分ほどの音声配信するもの)
2017年11月29日 いい肉の日は
『孤独な「消費者」から情深い「生産者」へ』のテーマで

井上ひさし氏の少年時代、辞書を盗んだ話が出てきた。

 

感動した!

人を育てること

消費者・生産者のこと

人間の本質のこと

 

凝縮されているようだった。

 

面白い話をありがとうございました!

 

「これからだ!」



 

下の記事を一つ目のネタに。

 

 

www.mag2.com

 

有料記事のため、全部は読めない。

一言で言えば、終末論を煽るだけ煽っている。だけ。 

英国という土地柄を考えれば、日の沈まない国だった覇権をアメリカに取られ、搾取してきたはずの中国にうまく使われている状況を、認めたくないのだろう。

 

西洋で生まれた科学、その元になった西洋思想では、これからの問題は解決できないだけだ。

 

科学の頂点だったはずの原子力も歯止めを持てなくなり、核の傘という美名のもとに白人支配できていた時は良い。しかし、黄色人種朝鮮人に核を持たれて(イギリスも実は噛んでいるんだけどね)今までのような解決をできなくなっている。

白人は散々搾取してきたんだから自業自得とも言えるが、その刃を相手に向けるのも二元論という西洋的な発想になるので、それはしない。

 

では、どこに解決を求めればいいのか?

 

簡単だ。

 

日本だ!

東洋思想の本質は日本にある。

中国(支那)の書物を日本の学者は漢文として書き下し、日本人にも読める形しただけでなく、

日本的な形でより高みに持って行った。

科学は、自然を人間が征服する道具として用いてきたが、日本には自然を征服する概念はなく、共生の道を模索できる。

 

核戦争の心配をしているけど、今の米ソ冷戦の二極構造の残滓を回収していると見れば、中東ではIsisの首都陥落で一応の解決を見たし、朝鮮もおそらく近いうちに解決するだろう。東西冷戦の象徴の南北分断が統一という形で解決する。冬季五輪が一つの契機になると見る。


私は全く心配していない。

否、解決しなければ核戦争で地球は終わるわけだから、何が何でも解決しなければならないからだ。

 

また、こんな記事も見つけた。2つ目。

style.nikkei.com

 

 


 

AI(人工知能)は、様々な仕事をなくす、とその問題点ばかり最近は指摘されている。

早速、数字に特化したような金融関係の会社はそりゃあ人はいらなくなる。

当たり前だ。

 

いずれ、医師や弁護士といった莫大な知識をアルゴリズム化できる職種にまで及んでくるので、覚悟した方がいい。医師の診断は、一つの方法論があるので、知識量は人間は叶わない以上、カン以外の要素はAIに取って代わられる。(医師がどの程度感が必要とされるかわからない)また、弁護士も法律の丸暗記は当然人間は劣るし、過去の判例である程度やり方はわかるので、AI弁護士同士が争い、裁判官もAIなんてことは100年も見ればありうるだろう。こちらも勘がどの程度必要かわからない。
人間のAIに対する特異性については、「CMH」Creativity創造性 Management経営力 Hospitalityおもてなし だと井上智洋氏は述べている。

 

では、差し当たり仕事がなくて困るかと言ったら大きくは困らない。と踏んでいる。

それはBI(ベーシックインカム)が導入されるからだ。

基本的な収入はそれで得ればいいから、仕事がなくても生きていける。

 

問題は、いつ頃からか?
すぐには難しいだろうから、ある程度の財源が確保される見通しと国民生活の維持を考える社会保障のバランスを取る時期を見ていく必要がある。

 

具体的には今後3~5年と見る。それは社会保障上の問題を考えた場合だ。

現状、財源確保の視点で見るならしばらく難しいと感じる。早くても10年か。

ない袖も振れない。

 

その上で別の話。

これから田舎での生活は若い人も入ってくる可能性が出てきた。

金融関係の仕事に人間性を押し殺して続ける人は実はあまり優秀でない人たちだ。

優秀な人たちはどこでも何をしても仕事はある。

 

その中に田舎というフロンティア(未開拓領域)をどのように展望するかはその人の考え方になるが、一つ福島県はやはり面白い地域だ。

既存の枠組みの継続は難しく、新たな枠組みを必要とするから話を進めやすい。

もちろん、反面で今までのやり方の縛りも大きいし、更に言えば、東北ならではの1万年前からずっと続く生活様式・考え方もある。

 

その両者のバランスをとったやり方を模索できるのが、この土地の魅力だ。

残念ながら、地方公務員にその手の仕事は難しい。

そこを取り巻く企業も疲弊しているのが現状だ。

利権構造を持った立ち位置で何かことを起こすのは至難の業だ。

反面、このままではいけないと秘かに準備している人もいるのが実は後押しするだろう。

 

現実には、その道のプロ、例えば農業や私が進める(正確にはこれから進めるだが)炭焼等の1次産業(2次3次産業も大きくは含まれる)で働きながら、AI時代の社会づくりを進められる人になるはず。それこそ、余計にハードルは高い。

 

難しい。

けど、だからこそ面白い。

 

AI時代の新たな枠組みを作れる人材をこれから求めていこう。

 

その先に通貨含めた新たな世界的な枠組みも見出せる。

「ボクがボクであるために」

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カトーコーキさんの漫画「しんさいニート」を読む。

 

ここまで自分を赤裸々に語れる勇気に感服!

氏は非常に頭の良い方だ。

自己分析力の高さは読めばすぐわかる。

それでも自分の力だけでそれはできなかったし、多くの人の支えで力を得た反面プレッシャーの強さもまた大きかったけど、それさえ力に変える強さがあった。

本当のこと つまり国は必ずしも本当のことをすぐ言わない を知ったことで

混乱の中で生きてきたストーリーに真実もまた感じる。

 

この人のエネルギーの強さに私は惹かれました!

そのエネルギーを転換した強さにもまた惹かれました!


「しんさいニート」の作者・カトーコーキさんは、いずれお会いしたい!

 

「仲間意識」

 

 

リアルインサイト2017年11月号

氏のお話をオンラインでお聴きした。

 

自由民主主義の背景には、仲間意識が必要だという。

 

それが今なくなっている。

理由は単純だ。

リベラル派が標榜する国籍をなくす議論は大きくグローバリゼーションの流れになる。

多国籍企業が台頭する中、

安い労働力を求めて後進国へ投資して、労働単価が上がったら別の土地に行く。

また、法人税がより安いところを求めて、本拠地を移す。
タックスヘブンが生まれた元だ。

それらは、人の顔が見えない人々だから、搾取してもいいという理屈になる。

また、古代ローマ奴隷制・十字軍の略奪・植民地支配・現代のグローバリゼーションの美名のもとの多国籍企業による搾取、形は変われど大きく変わっていない。

奴隷を作る動きと構造的には変わらない。

 

それはそうだ。

仲間意識のある人から搾取しようとしない。

金を貪り取ろうなんて思わない。

 

そうだ!

自分達さえ豊かなら、他人が貧しかろうが関係ないという発想だと言える。
利己主義の一つと言っていい。

変な理屈をつけて行ってきた野蛮な勢力には知れば知るほど頭にくる。

日本人にはない発想だ。


ともあれ、

当たり前と思って来た今までの動きに反旗をひるがえす内容だった。

今後の話として、

世界中でグローバル疲れしているという。

日本の精神的破綻は、もろに影響を受けている。

自殺者の増加や凶悪犯罪、引きこもりやうつ、過労死、今までの日本人が経験しなかった変化だからだ。

 

本来、第2次世界大戦後、ブレトンウッズ体制のもと、資本の国際的移動に一定の歯止めをかけて国民の自己決定権(国民主権)を保障して来た。

いつの間にかこれがなくなったしまったが、おそらくバブル前後から変化した(と私は思う)。
いわゆるプラザ合意とその前に行われた金本位制の廃止に連なる部分だ。

今は世界に流通する通貨の80%は金の裏打ちのないものだという方もいる。

 

 

英語化の流れから説明頂いたが、そもそも植民地支配の時は、母国語は使えなかった。

今は日本語を使えるけど、いわゆる「いい」会社では社内公用語を母国語以外にしようという情けない状況でもある。


明治維新以後、日本語を守った先人の思いは、

日本語で専門教育含めた議論ができれば多くの人の理解を得やすいからだった。

もし、欧米以外のような、専門教育を母国語以外で行う環境になったら、今のような水準を保てなかっただろう。いわゆる民度も高まらなかったはずだ。

 

そのため、明治にはたくさんの言葉を日本語に変換する作業に追われたという。

先人の偉業にもまた頭が下がる。

 

ルーマニアでフランス?で生きたエミール・シオラン
「祖国とは国語である」(Ume patrie, c’est une langue.)との言葉も感慨深い。
母国語を使いたくても使えない環境下で生きざるを得なかったシオランにも想いをはせる。

 

 

改めて本題に戻る。

 

見ず知らずの他人に仲間意識を持てるだろうか?

この前の選挙で流行ったような「排除」はしないだろうか?

 

残念ながら、そこまで善人はいない。

けど、もし顔が見える関係を持てたら、少しでも仲間意識を持てるはずだ。

 

枠組みが大きくなりすぎた。

知ってる人なら、騙さないし、排除はしない。

仲間意識もその延長上にある。そのくらいのコミュニティの上に成り立つものにしたらいいのだ。

 

公共(オホヤケの代)には限界が見える(と私は思う)。

 

その先は、家や族といった「ウカラ・ヤカラの代」になると言う方もいて、なんだかその兆しを感じるお話だった。

 

つまり、顔が見える関係性の中で生きる時代になる。

コミュニティが大切な時代にもなる。

さらに、それって一周回って、昔に戻ることでもある。

その点で東北の時代になることともつながる。

歴史の見直しが進む。
青森の三内丸山遺跡では数千人規模の集落があったこともわかってきた。
日本人のルーツを遺伝子情報で辿ると、近隣アジアと随分異なることがわかってきた。
千葉時代」を入れるべきと言った論も出た。
中世の見方は大きく変わっている。
戦国時代のイエズス会の侵入についても随分解明されてきた。

明治維新150年を前に、「反薩長史観」も生まれる。

真珠湾奇襲も戦争したいルーズベルトが仕掛けたとフーバー元大統領が手記に残した。

 

歴史の見方が変わると時代が変化するのは明治維新を見れば明らかだ。

 

徳川幕府が武士の支配が当たり前の時代に、水戸光圀大日本史征夷大将軍の徳川の記述を天皇陛下の記述よりすべて一段下げて書かれた。そのことで、天皇は徳川より上の存在だと暗に示したものだった。

また、錦の御旗を見たことない人々が太平記を知っていたから、戦中にとある側を見て「錦の御旗だ!」と声があがり、敵陣は戦意を喪失した話もまた後押しした。

歴史が流行ったからこそ、明治維新が生まれたとも言える。


明治以上の大きな変化が待っているように感じる。

 

氏の言う「仲間意識」は、

今まで当たり前だった奴隷制度の延長戦でしかなかった流れを

今断ち切って、新時代を切り開くキーワードかも知れない。

 

母の病から学ぶところ

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私の故郷・埼玉県行田市
最近では陸王というドラマで有名になっている。

ちなみに写真は古代蓮タワーから撮った田んぼアートの様子。

さすがですね。




私は両親がしばらく元気だと思って福島県川内村に移住。

すると3年前父が他界し、母の入院してしまった。 

 

今後、長丁場の治療もありそうだ。

ひとまず、実家近くでの治療はひと段落。

次は別の病院での治療になる。

 

移住者の宿命。

特に私は長男で、周りには頼めないから…と考えて来た。

その考えも変更する必要がありそうだ。

 

考えてみれば、私は42歳。

ここまで随分自由にやらせてもらった。

その分、妹に負担をかけて来た。

 

今度は私の出番だと思った。

人には頼めないと思って来た。

 

でも、協力してくれる人に囲まれていたことにも気づく。
思い込みにハッとさせられた。

 

そして、

今まで両親との関係はずっと悪かった。
否、

両親のせいにして生きて来ただけだった。

私自身がうまくいかない真因は実はここだった。

 

よくよく考えれば、自分が変わるために今までして来たことで
色々な方から学ぶことができ、その際にできたご縁で今は幸せだ。
楽しい時間を過ごせている。

それは言い換えれば、母のおかげでもあった。



これからは東京の病院でお世話になることを決めた。

母の変化にはまた驚かされる。

どんどん良くなっている。

 

希望を持って欲しいと思って様々な働きかけもして来た。

つまり、こういった状況では自分が本当に望むことが現実化するからだ。

 

 

例を出す。

とあるアルツハイマーになった人は、ずっと自分を悪く見てきた。

男は特に、定年すると社会と関係を作るのが難しい。

 

どんどん今後悪くなる。

誰も相手にしてくれない。

こんなに悪くなって生きてはいけない。

 

その思いに覆われて、どんどん病状を悪化させる。

程なく亡くなった。

 

因果関係をはっきりできないが、

認知症は適応だと思っている。

非常に簡単な(かつ不適切な)言い方をすれば、

バカになってしまった方が楽だから、認知症になったと。

 

人間の意志の力はどちらに使っても、ものすごいパワーを持っている。

よく使えば、ほとんどの病気を治せるほどの力を持つ反面、
逆にどんなにいいと思っていてもいくらでも悪くなる。

今や声も変わってきて、一時の落ち込んでいた様子は一変。
まだ治療も途中だけど、よくなることはもう確信している。

母の姿からまた教わった。

 

 

人間の本来持つエネルギーをいかに発現できるか。
これが日本エネルギー研究所の目的でもある。

 

生きる力と言われるが、

そのエネルギーを作り上げていくことは物質文明的発想で覆われた現代に必要な部分だと思うし、自分が変わりたくて行ってきたことは全てこれで良かった。

これでいいのだ!

 

 

最後に2つの言葉を紹介して終わる。

 

「情熱こそは、人間性の全てである」La passion est toute l’humanité.

バルザック「人間喜劇」)

 

「覚悟がすべてである」The readiness is all.
ハムレットリア王」)

 

「ある」

 

 

昨日のとこさんとのFBのやり取りで気づいたことがあった。

www.facebook.com

 

 

髪の毛があるとか、ないとか。

まあ最初は随分気にしてたからなあ(笑)

今は覚えてもらいやすい。
反面、人によっては同じ顔に見えるようだ。

その人の認知の線引きは頭でしかないから(苦笑)





気づいたことはこの先で、

それは「ある」「ない」の話。

 

昨日も引用したエルンスト・ブロッホの言葉。

 

「私はある。我々はある。それで十分だ。ともかく始めなければならない。」

(Ich bin.Wir sind. Das ist genug. Num haben wir zu beginnen.)

 

ブロッホは、
音楽には文明の初心の頃の精神のあり方

「原故郷」(die Heimat der primitiven)に近づくことができると。

 

「原故郷」では、世界で今必要なものは、実は不要だったと気づき、それを投げ出せる。

あらゆる虚飾を取り去ったむき出しの実存になった時に、希望をつかむことができる。

そこまで来て初めて

「私はある。我々はある。それで十分だ。ともかく始めなければならない。」

(Ich bin.Wir sind. Das ist genug. Num haben wir zu beginnen.)

 

となる。

 

概念的だが、非常に共感できる話だ。

 

 

目前の世界に一喜一憂してしまうが、本当に必要なものは実は少ない。

私は死を意識した時に、その辺りが明確になったし、まだまだ深める必要がある。

 

それは生きるために必要なものは生物的なものと人間的なもの、
そして自分の魂の発露から行なわれるものとを含めてもそう多くない。

案外縛られて生きている。
社会的制約というだけでなく、自分自身の思い込みが強い。

 

 

「ある」からはじめるには、一定のプロセスが必要だ。

「ない」にこだわるのも致し方ないし、それを人に求める必要はない。

 

自ら始めればいい。

ただただ、

私はある。我々はある。それで十分だ。ともかく始めなければならない。

(Ich bin.Wir sind. Das ist genug. Num haben wir zu beginnen.)

 

「百尺竿頭に一歩を進む」

 

 

 

禅の公案

「百尺竿頭に一歩を進む」

がある。

 

竿を百尺まで伸ばした先に

さらに一歩進むにはどうしたらいいか?

 

いわゆる禅問答で、現代では馬鹿馬鹿しい話とも思われがちだが、

私はそうま食べる通信に
「百尺竿頭に一歩を進む」ヒントを見た。

 

そのまま
真似はできないものの

その本質は何かを自分なりに考えてみた。

 

まどろっこしい話を書くが、結論はいたってシンプルだ。

 


そうま食べる通信2周年大収穫祭に参加。

www.facebook.com




楽しかった!
そして、素晴らしい場だった。

その時の様子はとこさんのFBから拝借。

www.facebook.com



食べる通信の魂を
相馬独自の文化で昇華した

そうま食べる通信

魅力的だ!


東北食べる通信で
魚編集長のもっちゃんが特集される。

しかし、どうにも魚が取れない。

哲さんが頭を抱える。

 

そこで、読者に伝えたところ、驚きの反応。

自然が相手だから仕方がないと言う声。
高橋博之「都市と地方をかき混ぜる」より)

 

taberu.me

 

 

市場原理だけで動いてきた日本経済の風穴がひとつ見えた瞬間だったかもしれない。

 

この時の苦悩とがあったから、そうま食べる通信をはじめようと思ったに違いない。

 

「どこよりも相馬がやるべきじゃないか」云々の話は、

ツカミとしては面白いので、それはそれの話。

あの出来事で沸々と湧き始めたものだった。

 

東北食べる通信の質の高さにはかなわないが、

そうま食べる通信の荒削りな素人の力、相馬の歴史に裏打ちされた魂が

これだけの魅力を作り出している。

 

 

 

 

また上の話を読んで、思い出した言葉がある。

 

希望は常に不幸と悲哀と絶望によって支えられている。

(執行草舟 「根源へ」より)

人類はまさに絶望から多くのものを見出した。

現在の南相馬市小高区出身だったか。

文人埴谷雄高(はにやゆたか)は「A≠A」を「自同律の不快」と述べている。

氏について

科学の世界の基本である「A=A」を否定するのは、

あらゆるのものが無限変転する世界では、次の瞬間には同じではないと考えるから。

 

さらに、「A=A」を信じた瞬間に人間は終末を迎えると

「希望の原理」のブロッホは述べていて、

「人間は未だ人間ではなく、世界は未だ世界ではない」と信じることで希望が生まれるとも。

 

科学万能が極まった世界は希望を持ちにくい。

 

でも、極まったものは必ず変化する。

新たな地平の兆しはもはや様々な場面に出てきている。

 

そうま食べる通信のタネは着々と刻まれ、

自同律の不快が示す一つの希望を生み出した。

 

その変化の先端、

「百尺竿頭に一歩を進む」のが、そうま食べる通信だ。

 

別に、何か高邁な理念は実はない。

 

これは逆説だが、別の高邁な理念を出した時点で、相反するものを意識している。

空ではなく、色をつけて見ている。

そうするととらわれてしまう。

 

生産者と消費者をつなぐと言う食べる通信は、

お金のやり取りをして、売り手買い手の立ち位置に縛られてしまう。

売り手は買い手を喜ばせなければならないと言うものに。

 

そこに意識をおかずに、ただただ一緒になって楽しむ。

 

知行楽の話にも通じる。

 

 

 

仏教の言葉で言う「無作」

最近流行った言葉なら「ありのまま」

言葉を変えれば、「とらわれない」「執着しない」s

英語で言えば「Let it be」であってるか?

 

いい悪いではなく、ただただ遊んでいるし、

シンプルに目の前の人を喜ばせたい気持ちの発露。

 

一言で表現するのは難しいけど、

もっとシンプルに自分が楽しみ、相手も楽しむこと。

 

そこには決して欲得が働いていない。

頭で考えているのでなく、体で感じる世界だ。

 

それだけでもうなんだか幸せな時間が過ごせる。

 

ひとつ、百尺竿頭に一歩を進めてみる。