japan-energy-lab’s blog

日本エネルギー研究所です。福島県川内村に炭増すためにも、木材の可能性について簡単ニュースをはじめてみます。

「タブー」

 

 
私の尊敬する
たっちゃん。

弓山達也さん
 
こちらの寄稿文。

オウム事件死刑執行にコメントyumiyamalab.wordpress.com

 
 
大いに驚かされた。
今までは難しい印象だったので、あまり理解できなかったが、
今回ばかりはその感動の所以を書いてみたい。
 
そして若き20代の頃に
オウム真理教の集会に出席されているほどの好奇心の強さは
お会いしたいわきの未来会議だけでなく、
私が行った炭焼き体験キャンプにもきてくださるなど、
東日本大震災被災地に足を運ぶことを厭わぬ姿は、
今でも貫かれていることがまず驚いた。
 
感じたことを
ポイント3つにまとめる。
 
1.真面目
2.反社会性への転換
3.宗教の役割と今後
 
 
以下、それぞれについて書いてみる。
 
1.真面目
 
ご自身は真面目でないから入信しなかったが、
真面目な人々はことごとく傾倒していった
との趣旨のことを書かれている。

謙遜もこもっているが、至言である。
若さゆえの真面目すぎる気性は、性急さを求める。
時に、暴走もするし、悪事も働く。
 
私も元々真面目だった。
それゆえにの部分をあえて語れば、
両親が創価学会に入っていたので、20代前後はかなり没頭した。
有り体に言えば、居場所のある心地よさがあった。
しかし、実際には幸せにもなれなかった。
幹部と呼ばれる方も、基本イヤイヤ対応していることはバカでもわかる有様。
 
思考停止状態にして、行動をコントロールする本質を知ってしまった。
 
それは、思考停止な自分がまた心地よかったということ。
言い換えれば、自分で責任を取ることのない無責任とも通じていた。
 
これは予言小説と呼ばれる
「1984年」等にも大衆の心象が綴られている。
 
その背景は当然、自己肯定感の低さなのだが、その点についても弓山先生は論じておられるので、その部分は2に譲る。
 
真面目というのは
一切の妥協を許さぬ純粋さであり、純潔でもある。

反対者に対しては、完膚なきまで打ちのめすことでもある。
 
創価学会の敵に対する反撃の仕方は、まさにそれだ。

更に言えば、それは一神教的発想。
 
一神教といえば、ユダヤ教キリスト教イスラム教といったものが想起されるが、
単純に言って、二元論の思想。
善悪で論じる思想は、敵を必要にもする。
 
他方、一神教の反対は多神教
日本の神道に代表される
八百万(やおよろず)の神がいると考える思想は、一元論。
善悪だけでない見方だ。
 
私が端的にこの思想を表していると思う言葉は、
「泥棒にも三分の利」
普通に考えれば、泥棒は100悪いと思うけど、
そんな泥棒でも30くらいは利と思えること(善)があるよ、と。

勘違い、行き違い、困って、あるいは、生い立ちを考えると、
いわゆる犯罪者と言われる加害者は、もともと被害者だったという論もある。
 
善悪にとらわれず、ありのままに見る発想がそこにはある。
 
 
よくよく考えると、仏教は一神教的発想でないはずだが、
創価学会一神教的なのだ。
 
大日本皇道立教会が母体だったことは、
創価学会がひたすら隠しているが、もうネット上では周知の事実で、
今更、池田氏が生きてますよね、くらい、嘘をつくことは大変だ(と思う)。

今、学会員の人に対して、幹部さんは母体のことを聞かれたらなんていうんでしょうか。
真面目は一神教と相性がいいということは押さえて、次に進む。
 
 
 
 
2.反社会性への転換
 
「自己肯定感の低さを背景とした自分探しと非社会性が反社会性に転じる」
と指摘する。
 
これが焦眉だ!

私が若い頃ずっと思っていた、一発逆転を狙うような発想だ。
 
自分に自信が持てず、社会性もないから、鬱屈としていた。
そんな自分は本当の自分でない。
もっとすごいんだ。
なんて考えて、自分を誇示するためにも、創価学会という組織は利用しやすかった。
 
なんか大きなことを言えば、(創価学会の)周りは評価してくれるからだ。

だから、それらのためにも非常識なこともした。
(いきなり仲も良くない人に、選挙を頼んだりとかね。苦笑)

評価を得るために。それがつかの間の自信になり、また居場所になった。
 
創価学会はまだ非常識といってもほどがあったが、オウム真理教はそうはいかない。文字通り、「自分探しと非社会性が反社会性に転じ」ていった。
 
私も、そういったものにはまりやすい体質を考えれば、
オウム真理教に入っていたら・・・
十分に想像できる話だ。
 
さらに、
「自己肯定感の低さを背景とした自分探しと非社会性が反社会性に転じる」動きって考えてみれば、いくらでもあるじゃないか!
 
例えば、
共産主義運動。
 
戦前の様子を見れば、やはり
「自己肯定感の低さを背景とした自分探しと非社会性が反社会性に転じる」若者の特性を使っている。
 
見方を変えれば、
共産主義はゼロ神教だという方がいる。
神様が一つなのをさらに抽象化して、ゼロに持っていったと考えれば合点がいく。
 
面白い話だが
話を戻す。
 
あるいは、
19世紀~戦前?の世界青年党運動は、世界中で展開され、日本でも青年とつく結社(という言い方でいいか?)は影響を受けていると聞く。明治維新もその流れだという説もあり、20代の維新志士の面々を思い浮かべても考えやすい。
 
明治維新もオウムも構造が一緒だ!
といったら、恐ろしがられるかもしれないが、
私見では一緒だ。
本質とは
そんなものだとも思う。
 
 
現代では
こういったことを
まだ受け入れがたい人の方が大多数だろう。
しかしながら、
そうでもない層もいることを私は知っている。

若い熱と力を、善に生かすか悪に生かすか
どっちに生かすかは、大人の役でもあるはずだ。
 
あえていえば、
オウム真理教には、悪に生かす役目があったのではないかと考える。
 
その発想の原点は、創価学会は反共(産主義)の砦だった(ととらえている)こと。
 
公明党は常に、共産党よりちょっと議席数を多く配してきた。
つまり、
公明党がなければ、
共産党に行ってしまった人たちを、創価学会につなぎとめておく。
 
そのことで、共産主義勢力を半減させる役割があった。
日本が共産化したことは想像しにくいが、とても今のような時代を築くことはできなかっただろうことは相違ない。
 
その点では池田大作氏の力は偉大だったと思わざるを得ない。

オウム真理教
広く同じ役割と捉えれば、
日本社会を維持するために、オウム真理教があったとしたら・・・?
 
まだその具体的な役割がわからないが、
そのようにとらえている。

理由は単純で、
資金力がありすぎること。
出家した者から全財産を取れるとしても、
ロシアに行ったり、
サリンを開発したり、
選挙に出たり、
あまりにも資金力がありすぎる。
 
また、マスコミが取り上げられすぎることもある。
 
例えば、幸福の科学はそこまで取り上げられない。
 
いっときのオウム真理教の報道は異常だった。
私からすれば意図を感じざるを得ない。
 
 
 
3.宗教の役割と今後
 
ともすれば、
昔から宗教は支配の道具だったのかもしれない。
 
人の幸福は二の次だった
と言ったら、実際に奔走されている方には失礼かもしれない。
 
とはいえ、宗教だからこそできることもあるのも事実。
聖者と呼ばれる方に救われた方もいるのはまぎれもない事実だから、
その辺りは、すべて人だ!
 
その上で、
宗教は統治者からすれば、
分断する目的を持っていたとも言える。
 
上の例だけでなく、
イスラム教はキリスト教勢力を二分するため、
半減させるために生まれたという説もある。
 
古代ローマの「分割して統治せよ」は生きているからだ。
 
 
視点を大きく変える。

AI(人工知能)が今後は台頭してくる。
今の仕事がなくなると不安をあおる話も多い。
もちろんなくなる仕事も多い。
 
例えば、車の運転が自動化されれば、タクシー・代行は要らなくなる可能性もある。
配送業もそうだし、ドローンによる配達もあり得る。

一方で、例えばタクシーがなくなった時に、万一事故を起こした時の対応を誰がするかといえば、時代が進めばそれもAIができるかもしれないが、東京オリンピック後の2020年代は人がやらざるを得ないだろう。
その辺りを請け負う業者も出てくるかもしれない。
 
つまり、仕事がなくなる反面、新たな仕事も生まれる。
それも全体の仕事の数、労働時間で言ったら減る。
 
けど、それでもAIが勝手に経済成長してくれるから問題なくなり、
その分BI、ベーシックインカムで全国民一律一定額を支給することで、
生活保護等の不正受給の問題もなくなると、私は考えている。
 
つまり、「働かざる者食うべからず」でなく、「働かざる者食うべし」になるのだ。
そのことで人間本来持っていた道徳も一変する可能性がある。
 
それとは別な意味で、
AIが道徳を教える時代が来るかもしれないことは、
私は危惧する。
 
例えば、戦争。
例えば、いじめ。
例えば、利権。
例えば、諍い。
 
人間でも解決できることが、解決できなかったのも現代だ。
それをAIが果たして黙っているだろうか?

これこそが宗教の役割だ。
 
人間の機微を将来AIは理解できるかもしれないが、まだ時間がかかるだろう。
AIの道徳を解いた時に、人間が太刀打ちできなければいけない。
 
宗教が人間の道徳心を涵養できるか。
ただの仕事だと思っている宗教者は淘汰されるかもしれない。
 
坊主丸もうけ どころか、
坊主すってんてん だってあり得る。
 
いわゆるお坊さんがYouTubeで人生相談に答えていたりする時代だ。
若い世代ほど時代に敏感なのは、古いしきたりを持った仏教とて同じだ。
むしろ頼もしい限り。
 
AIに説教されないようになりたい。
なかんずく、宗教者の権威が地に落ちない未来を願うばかりだ。