「上善水の若(ごと)し」
老子についての田口佳史氏の著書
「ビジネスリーダーのための老子道徳経講義」
ビジネスリーダーのための老子「道徳経」講義 | 田口佳史 | 致知出版社 オンラインショップ
昨日もブログに書いた
japan-energy-lab.hatenablog.com
水の生き方が少しわかった気がした箇所がある。
虚無第二十三には
驚くことが書いてある。
故に
道に従事する者は、
道ある者には道に同じくし、
徳ある者には徳に同じくし、
失へる者には失へるに同じくす。
「道」を信条として生きる者には道に生きる者同士として付き合い、
徳を大切にしている者には徳を大切にしているどうして付き合う。
道も徳もない者には、無い者どうしとして付き合うことだ。
意見が合おうが合うまいが、
「心の合うところを見付けて、
心を合わせていく事こそ、真に能力のある者」
という。
最後に、こんな言葉もある。
信(まこと)足らざれ場、焉(ここ)に不信有るなり。
説明としては、
でも一つだけ、表面的に合わせているだけでは相手にすぐ感じられて、かえって信用を失うだけだ。心から相手の身になって、相手のレベルにへりくだって、心から付き合わないと、折角の友人を失う。
幼い児と話す時に、その子の背丈に合わせて、膝を折って話すあの感じだ。
相手に合わせるというのは、表面でなく、心から合わせる。
でも、考え方は皆違う。
だから、合うところを見付けていくのだ。
違ってもいいけど、どこかしら合うところが必ずある。
傾聴の「聴く」ということにも通じる。
この人とは合わせる、合わせないではなく、
どんな人とでも合わせることはできる。
全て合わせずとも、合うところを合わせること。
ここでは「水」と言う言葉を使ってないまでも、
水のように低きに流れ、濁ったところに進んでおりていくことにも通じる。
巧用第二十七には
善という言葉を用いて、心を合わせることで自然にうまくいくことが述べられる。
善の心で「道」と一体になった人の言う言葉は、トゲも傷つけることもなく人の心に自然に入っていく。…心と心の絆を結ぶことが出来る…
そうすると、その人ならではのすぐれたところが見えてくる。その人の得意の部分を引っ張り出してくれるから、誰だって能力がある優秀な賢い人になってしまう。(襲明)
したがって、「道」のこころ、善い心で生きている人から見れば、善人も不善人もない。不善人だって十分により善く用いることが出来る。…
善と言う言葉は、ここでは「道」に生きる人の意味で良い(と思う)。
上の「虚無第二十三」のように心から相手の心と心とを合わせていけば、どんな人も善用することが出来ると言っている。
「水」のようにどんなところにも入っていき、下へ下へと流れて、へりくだる。「触れ合う人皆師」の心で誰からも学ぶこと(易性第八)で、
心と心を合わせて、絆を結ぶことで、自然と上手くいく。
今までの生き方を省みる。
儉武第三十にある
物(もの)壯(さかん)なれば則(すなわ)ち老ゆ。是を不道と謂ふ。不道なれば早く已(や)む。
人生においても壮年期は、年季も入り、慣れもあって、しかもまだまだエネルギッシュだから、いつしか強引に事を進めようとしてしまう。
それは無駄に元気や精気を使ってしまうことになるから、早く老いてしまう。
しかもそれは道の説く生き方に反するから”生命(いのち)”を無駄遣いすることにもなるのだ。
と述べられている。
まさにその通りだった。目標達成の山を登ることばかりしてきたけど、これからは水のように山を降りること、まさにあらゆるものが集まる「天下の谿(谷)」のように。