「何を求めているか?」
感情は常にニーズ(何を求めているか)を知るきっかけになる。
そもそも、感情にいい悪いがないので、一つのシグナルである。
悲しみは苦しいけれど、悲しさを感じなければその出来事を回避しなくなる。
喜びは、それをもう一度味わいたいと思うので、また同じ(ような)ことをすればいいと学ぶ。
余談だが、私は負の感情を感じないようにすることで生き残ったので、負の感情と同じように正の感情さえも感じられないようになっていた。感情とはそう言う種類のもので、どちらかいい方だけを感じたいと言うことができないようだ。
さて、
昨日の私には、シグナルがあった。
つまり、
怒りが湧き起きた。
それは自分を自分で責めて、卑下してしまう思い込みから起こるものだった。
その卑下や自己嫌悪は、自分を肯定したいというニーズの表れだった。
自分にYESと言う。それだけのことだった。
自己肯定と言うべきか。
自己否定する思い込みがあった。
それは、
「~できない自分には、価値がない」
「~できない自分には、他人に悪く言われても仕方ない」
「~できない自分には、生きる価値もない」等々。
ただの思い込みだ。
言い換えれば、生き残るために学んだこと。
幼少時の学びは、大人になって必要かどうかは本来別だけど、
「三つ子の魂百まで」よろしく、後生大事に生きていく。
これは教育の負の側面だ。
比較的決まった枠組みの時代は、それで良かったが、今は大変革期なので、
前時代の価値が現在には価値がないこともありうる。
その「思い込み」が社会不適応を招きかねない。
体罰に対する考え方の変化がわかりやすい。
私の子供の頃のドラマ「あばれはっちゃく」は今の人が見たら虐待でしかない。
不易でぶれない生き方をしていたら、もはや虐待者で、あおりを受けているのは主に伝統を重んじる世界、特に相撲界だ。
思い込みに気づくと、スッキリする。
問題は解決したわけではないが、そこにある問題に気づけば、それを解決する術は潜在意識が勝手に探す。
これまでの自分を守ってくれたのも、この思い込み(信念)でもあった。
感謝をするとともに、サヨナラも言う。
何度これまでさよならを言ったか分からないけど、何度でも続けよう。
それが変わるってことだから。