「信じる」
我、人に逢うなり。
人、人に逢うなり。
我、我に逢うなり。 (道元「正法眼蔵」)
人との出会いや出来事の中でしか、自分と対面できないことが多い。
今回気づいたことも、そんな話。
しかも、人ごとかと思ってたけど、自分ごとだったという話。
母のこと
妹のこと
分けて考えてきたけど、
同じこと(相似象)が自分にもあった。
それは
「信じる」
ということ。
私が人を信じられなかっただけのことで、
それなのに母に妹に何を言っても無駄だった。
見方を変えれば、私が信じられるようになるために、母・妹の出来事があったのだ。
「信ずることについて」の章では、冒頭にこうある。
信ずることは、人間だけが持つ高貴性を証明するものである。
信じることの大切さを、様々な角度から述べられており、最後は科学の本質にまで言及する。
今回読み返して感じ入ったところを抜粋する。
私自身、今まで、信じたことだけが人生に価値を与えてくれた。過去に私も奥のことを疑った。その結果、卑しさにとりつかれた自分に気づかされただけであった。疑ったことで、良い思い出は一つもない。もちろん、自分が嬉しくなるようなことも一度もなかった。肉体も精神も財産も、およそ良い結果を生んだためしはなかった。疑ったことで、何かが上手くいったこともない。疑えば、どんなつまらないこともできない。私自身、今日までそれなりになんとかできたものは、すべて信じたものだけである。
自分自身を、構築してきた思い出に残る事柄も、自己確立に役立ったものはすべて信じたことだけであった。疑った時はいつも失敗した。ものごとが、私の疑った通りになったことは何度もあった。しかし、結果は思った通りになっただけで、自分の人生には何の役にも立たなかった。その通りになったとしても、何の役にも立たないものだ「疑う」という行為である。何かを疑えば、それがその通りになった挙句の果てが、自分の精神を卑しくし、体でも悪くするのが落ちとなる。(293頁 4~15行))
「思った通りになる」とも言い換えられる。
ただ現象をなぞれば原因結果の因果関係は後付けできるだろう。
しかし、目に見えない「信じる」「疑う」こそが実は成否を決めると言っている。
例として、原爆開発を引き合いに出される。(前掲書294~296頁)
アメリカが最初に原爆製造に成功したが、その労力の9割以上が、本当に原爆が作れるのか否かという、疑いからくる不安との戦いに浪費されていたと指摘する。その後、ソ連が2番手になったが、スパイがいようがいまいができただろうと推定する。それは2番手には本当にできるかどうかという疑いからくる不安と戦う必要がないからだ。
実際に原爆製造に限らず、新たなことをなした後はどんどん他者が成功する事例は枚挙にいとまがない。
ここ数日、この辺りのことを知る出来事と直面。
どこかで飛び越えるなら、いつでもドンと来いだ!
そのためにこそ、今ここに私はいる。
つまり、希望を生み出すために。
希望を信じられなくなる時もある。でも、それでも、信じる先にしかないのもまた希望だ。
目に見えるものしか信じられない時代には難しいことかもしれないが、つい数百年前には当たり前に行ってきた歩みでもある(と思っている)。
希望は情熱から生み出される。その情熱は必ずしも希望を生み出すわけでないこともまた事実だ。
また、ゲーテは「デーモン」(魔性のもの)と称して、民族の精神(普遍性)と本能から出てくるわがままである個人の自我(個人)とが葛藤している状態と表現し、「人間の中にはデーモンが棲んでいる」と生涯語り続けたという。この「デーモン」が、個性とも言えるし、情熱とも言えるもので、新たな価値の源になると考える。
このデーモンを信じること。
換言すれば、「清濁併せ吞む」。
その先にこそ、希望がある。
ただただ、信じる。