japan-energy-lab’s blog

日本エネルギー研究所・関孝男です。 福島県川内村に2013年移住。いわなの郷で働いております。炭焼き・移住促進・成長への興味を元に、全てのエネルギーの活用を研究することを建前に、本ブログでは成長の観点で思いのままに書いています。

「幸福とその葛藤」〜未来会議に参加して②〜

 

 

個人的なところでは、

懇親会の席で

「復興とは人の幸福をどうするかってことじゃないか」という趣旨のことを

とある宗教学者の方に言われた。

 

3年前、浜通り合衆国をつくるなら、どんなルール・テーマが欲しいかというお題に、「幸福」を考えることを話題にしたからだった。

 

そこは正直触れたくなかった。

なぜなら、自分に何もその答えもないから。

 

ただ、おぼろげながら影のようなものの塊を感じてはいる。

言語化はできていない。

 

幸福の形が決まっていた時代は、ある意味幸福だった。

昭和まではそれがあったと言っていい。

平成からは、会社が終身雇用・年功序列を廃止してしまい、いつクビが切られてもいい時代になり、会社での幸福を描きにくくなった。

消費経済が大量のアノニマスな(顔の見えない)個人を作り出し、それぞれが虚無の中で、それぞれの幸福感(観)を持つことを迫られる。

 

と考えていたが、私は昭和の頃からそんな幸福感を感じられずに来た。

家庭環境もあったが、幸福なんて非常に個人的な感覚であるので一つにはできない。

 

流行としても、幸福というワードは出てきて、

「幸福学」なるものが今はある。つい20年前は考えられなかった。

きっと、宗教学なり、哲学がそれをなんとなく包括していたのではないかと思う。また、それだけ幸福を言語化する時代になってきたのだとも思う。

 

一方で、幸福を語ることはカッコ悪い。

ただ、挫折して幸福に生きたいと思ったし、幸福とは何かがわかってなかった。

今でもそんなの分かるわけがない。

 

でも、宗教家でも正面切って語らない話を語っていくことも大事なんだと思う。

 

俯瞰してみると、

何か一歩前に進むことに躊躇している自分もいた。

 

最後に

ヒントにならないが、躊躇している自分の最近を書いてみる。

 

こういう話は嫌いな人もいるはずだが、こんな本がある。

bookmeter.com

病気は心を反映しているので、病気からのメッセージを受けて、生き方を変える機会になると。

 

足がずっと痛みがあった。

足は歩くため、前へ進むためにある。

つまり、前進への恐れがあるという見方。

「こだわりを手放し、喜びと共に楽しく進んでいくこと」を足は望んでいるのだと。

 

メッセージとしてそのまま引用すると

「あなたは、<今、この瞬間>の現実にしっかりと根づかなければなりません。宇宙をもっと信頼し、あなたの直感をもっと信頼してください。さあ、前進しましょう。思い切って進むのです。進むのに必要な手段だったら、どんなものでも使って結構です。他の人に軽々スク扱われて、そのままでいてはなりません。どうか決意して、今までの生き方とは別の生き方をしてください。あなたの隠された才能を発見するのです。人生に支えられていると信じてください。そうすれば必ず、人生はあなたを支えてくれるでしょう」

 

さらに

細かく言えば、上記の「足」は、膝より下のくるぶしまでのこと。

膝より上は腿。

こちらのメッセージも引用する。

「あなたの心の中にいるインナーチャイルドの欲求をもっと聞き入れて、自由に遊んだり、楽しんだりしてください」と。

 

 

確かになんか自縄自縛というか、味気ない生き方してた。

 

さらに、最近「事故」にあったことを思い出す。

罪悪感を感じていること、自分の何かを責めているということを示しているのだと。

詳細を省くが、「どこか休んではいけない」と思っていた。休む自分を責めていた。

事故を起こすと必然的に休む時間ができた。待たなければならない時間があるから。でも、休むためなら自分で時間を作ることができる。

 

情けない気持ちにもなったが、大切なことを教わった。

今すぐ何かなす必要などない。何かをする(DO)より、あり方(BE)の方が大切だ。何事かをなすための人生とも思い込んでいる。

 

自分の正直な気持ちを問いかける時間にしよう。

それが、「幸福」につながるものかもしれないから。