「白河という土地」
白河の話。こちらの続き。
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その続きとして、白河の歴史に思いをいたす。
戊辰戦争(明治維新)150年の節目の今年は、やはり先の戦争のことを考える機会にもなる。
「戦後」といったら、会津では戊辰戦争後のことだ!なんて言われたりするわけだから、
戊辰の戦いの土地である白河ではまた石碑や史跡が当時を思い起こさせる。
歴史を調べて驚いたのは江戸時代になって白河藩を治めたのは、いろいろな人が入れ替わり立ち替わりしていること。
阿部氏の後、空位になっていたことも驚く。
また、越後高田だったか、新潟の人がずいぶん入っていたことも、
新政府軍(西軍)に対して、奥羽越列藩同盟(東軍)ができたことも理解しやすい。
一方で、白河がすんなり入れたことは、もう準備されていたようにも感じる。
戦争は八百長で負けた方がシナリオを書くという説もある。
徳川(一橋)慶喜を腰抜けのようにいういわゆる司馬史観とは全く異なる考え方だ。
この戦はどう考えても西軍が勝たなければならなかった。
理由は簡単で、もし西軍が負けて東軍が勝っていたら今の日本はなかったことになる。
当時のプロイセン(ドイツ)に、戦争資金と引き換えに蝦夷(北海道)を99年にわたって貸与する話が最近新聞報道でわかった。
参考にこちら
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つまり、日本列島の一部である北海道が、1968年くらいまでドイツ領だったかもしれない。
だとしたら、どうなっていたか?
例えば、
日清日露戦争は北海道がなくて、勝てただろうか?
第1次世界大戦でドイツは植民地をだいぶ無くしたが、果たしてそのタイミングで日本のものになっていたか?もしかするとロシア領やアメリカ領になっていたらどうなっていたか?
第2次世界大戦でシベリア抑留でなく、北海道抑留なんて事態もあったし、その流れとして朝鮮半島のように米ソが分断していたとしたら今の日本の発展はあっただろうか?
また、北海道という土地がなければ、行えなかったであろうこと。
例えば、当時の北海道大学で学んだ新渡戸稲造も生まれなかった可能性もあるし、
驚く話をすれば、黄金や罌粟(ケシ)といったものをどう管理し得たか?
(維新後に起きた箱館戦争は黄金の移動の目的だったと落合莞爾氏は発表している)
そう考えると戊辰戦争で東軍は何が何でも負けなくてはならなかった。
会津藩主で京都守護職の松平容保はどんな思いで受け入れたのだろうか。
会津だけでなく奥羽越の諸藩主もどこまで知っていたかもあるが、大変複雑だ。
石碑の一つ
遊女志げ女の碑に足を運ぶ。
以下はネット上の説明を引用する。
越後生まれの志げは、幼くして白 河の妓楼坂田屋に身を売られまし た。西軍下参謀世良修蔵と情を結んだため、戦後会津藩士がしげを 憎んで殺害したと伝えられていま す。世良は仙台藩や米沢藩の会津 救済嘆願を退け、「奥羽を皆敵と見 て武力をもって一挙に討伐する」と 書いた密書が露見したため、閏 4 月20日未明福島城下にて捕縛され、 阿武隈川河原で仙台藩士らによっ て斬首されました。これが戊辰東 北戦争の始まる一つのきっかけと なりました。
この世良修蔵という人物も不可解。
ちなみに世良についてはここでも書いた。
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世良があんな態度をとったら、殺されることはわかるし、
密書をわざわざ手元に持っているなんて普通はあり得ない話。
世良が討たれたら、それを口実に戦をすることが仕組まれていたかのようだ。
維新後の朝鮮に対して西郷どんが、自分が殺されたらそれを口実に戦をすると語っていたかのようだ。
しげという遊女は世良と関わってなければ死ぬことはなかった。
また、しげを殺したものもその後仇討ちされている。
運命の悲しみをまた実感する。
白河は東北の中でも早くから中央と関わりを持っていた。
地政学上の要所でもある。
それゆえの戊辰戦争のような悲しみもあったが、それはまた時代を動かした地でもある。
白河の関があるが、
関とは?
私の姓でもある「関」とは門構えにかんぬきが刺されているが、結界を開け閉めする役割がある。水だったら堰を置いてその流れを管理したように、人と人との関係を作り出す役割ができたら、それは本望でもあるし、氏(うじ)を生きることにもつながる。
その関とも言える地、白河にCafeEMANONがあるのも感慨深い。