japan-energy-lab’s blog

日本エネルギー研究所・関孝男です。 福島県川内村に2013年移住。いわなの郷で働いております。炭焼き・移住促進・成長への興味を元に、全てのエネルギーの活用を研究することを建前に、本ブログでは成長の観点で思いのままに書いています。

「上善水の若(ごと)し」

 

 

老子についての田口佳史氏の著書
「ビジネスリーダーのための老子道徳経講義」

 

ビジネスリーダーのための老子「道徳経」講義 | 田口佳史 | 致知出版社 オンラインショップ

 

昨日もブログに書いた

 

japan-energy-lab.hatenablog.com

 

 

 

水の生き方が少しわかった気がした箇所がある。

 

虚無第二十三には

驚くことが書いてある。

 

故に
道に従事する者は、
道ある者には道に同じくし、

徳ある者には徳に同じくし、

失へる者には失へるに同じくす。

 

 

「道」を信条として生きる者には道に生きる者同士として付き合い、

徳を大切にしている者には徳を大切にしているどうして付き合う。

道も徳もない者には、無い者どうしとして付き合うことだ。

 

意見が合おうが合うまいが、

「心の合うところを見付けて、

 心を合わせていく事こそ、真に能力のある者」

という。

 

最後に、こんな言葉もある。

 

信(まこと)足らざれ場、焉(ここ)に不信有るなり。

 

説明としては、

 

でも一つだけ、表面的に合わせているだけでは相手にすぐ感じられて、かえって信用を失うだけだ。心から相手の身になって、相手のレベルにへりくだって、心から付き合わないと、折角の友人を失う。

幼い児と話す時に、その子の背丈に合わせて、膝を折って話すあの感じだ。

 

 

 

 

相手に合わせるというのは、表面でなく、心から合わせる。

でも、考え方は皆違う。

だから、合うところを見付けていくのだ。

違ってもいいけど、どこかしら合うところが必ずある。

傾聴の「聴く」ということにも通じる。

この人とは合わせる、合わせないではなく、

どんな人とでも合わせることはできる。

全て合わせずとも、合うところを合わせること。


ここでは「水」と言う言葉を使ってないまでも、

水のように低きに流れ、濁ったところに進んでおりていくことにも通じる。

 

 

 

巧用第二十七には
善という言葉を用いて、心を合わせることで自然にうまくいくことが述べられる。

 

善の心で「道」と一体になった人の言う言葉は、トゲも傷つけることもなく人の心に自然に入っていく。…心と心の絆を結ぶことが出来る…

そうすると、その人ならではのすぐれたところが見えてくる。その人の得意の部分を引っ張り出してくれるから、誰だって能力がある優秀な賢い人になってしまう。(襲明)

したがって、「道」のこころ、善い心で生きている人から見れば、善人も不善人もない。不善人だって十分により善く用いることが出来る。…

 

善と言う言葉は、ここでは「道」に生きる人の意味で良い(と思う)。

上の「虚無第二十三」のように心から相手の心と心とを合わせていけば、どんな人も善用することが出来ると言っている。

 

 

「水」のようにどんなところにも入っていき、下へ下へと流れて、へりくだる。「触れ合う人皆師」の心で誰からも学ぶこと(易性第八)で、
心と心を合わせて、絆を結ぶことで、自然と上手くいく。

 

 

今までの生き方を省みる。

 

 

儉武第三十にある

 

物(もの)壯(さかん)なれば則(すなわ)ち老ゆ。是を不道と謂ふ。不道なれば早く已(や)む。

 

 人生においても壮年期は、年季も入り、慣れもあって、しかもまだまだエネルギッシュだから、いつしか強引に事を進めようとしてしまう。

 それは無駄に元気や精気を使ってしまうことになるから、早く老いてしまう。

 しかもそれは道の説く生き方に反するから”生命(いのち)”を無駄遣いすることにもなるのだ。

 

と述べられている。


まさにその通りだった。目標達成の山を登ることばかりしてきたけど、これからは水のように山を降りること、まさにあらゆるものが集まる「天下の谿(谷)」のように。