「私はある」
働けど
働けどなお 仕事終わらず
ぢっと手を見る
なんて思ってしまったけど
それでも今幸せなんだ。
それは魂が喜んでいるから。
心底やりたいことに携われているから。
多少の嫌なこともそれはワンセットだ。
情熱が受難とワンセットであることは以前ブログでも書いた。
知好楽 という言葉がある。論語だ。
孔子のいう道徳論よりは、老子の無為自然な生き方に共感するが、
この言葉は本質を実感する。
知るは好むに如かず
好むは楽しむに如かず
今私は楽しいのだ。
必ずしもうまくは行ってないし、
心配すればきりがない。
それでも楽しいのだ。
そのためには上機嫌でいることかなと思うが、必ずしもそうなれてはいない。
けど、楽しいのだ。
希望を持とうとする人間にとって最も重要な思想は「Noch-Nicht(まだない)」と述べているのは、エルンスト・ブロッホ(東ドイツで生まれ、西ドイツに亡命して亡くなる)だ。
原故郷(die Heimat der primitiven)という概念で、希望を見出そうとしている。
執行草舟氏の言を借りる。
原故郷とは、文明の初心にいた頃の「我々の精神のあり方」。
我々が意識の奥底にある「原故郷」へと導かれた時に、自己自身と出会い、真の自己と出会い、生命の哀しみを知ることができる。そこまで行けば、この世界でそれまで大切だと考えたことが実は不要だったことに気づき、投げ出せる。(福島県人は捨てるを投げるということにも通じる)そのことで、希望をつかむことができると。
私はある。我々はある。それで十分だ。ともかく始めなければならない。
Ich bin. Wir sind. Das ist genug. Nun haben wir beginnen.
つまり、停電もした。ガソリンも給油できなかった。買い占めもあった。
それだけでない。原発事故で当然安全と思われていたものがそうでないことも露呈した。
一方で、助け合おうという気持ちがあふれた。日常では自分の利益を優先して来たけど、それを度外視してでも乗り越えよう、助けようという機運ができた。
実は十分すぎるほど我々の身の回りに物質があった。
そのことに気づかせてくれたし、普段なら無かったら無理と思っていたことも、無かったなりに生活はできた。
「私はある。我々はある。」とは、存在だけでなく、存在を支えるものも指している。
現代にはモノがある。ありすぎる。でも、それはなくても一定期間生活はできたし、なくても人は協力することでしのげることも学んだと思った。むしろ、ないことで協力したことで私は大切なことを学んだ。不便益、不便だからこそ得られるものが実はあった。不思議な話かもしれない。
実は生きているだけで十分だった。先々の心配ばかりして生きて来たけど、それはつまらん話だし、心配する癖がついていただけだった。心配だけでなく、不安恐怖は商業的に利用されても来た。ないものねだりからは希望は生まれないのかもしれない。真の希望は常に十分だという感覚からなのだろう。
心配したがる自分は、言い訳をしたいからだ。と気づいた。
これからも言い訳の人生を送りたくない。何があっても。
自分に欠けているものを満たす欲求と同じレベルで
この地域に欠けているものを満たすことで自己満足を得ようとして来た。
そんな生き方では真の希望は見出せない。
もう私は十分だ。それこそが希望の源泉だ。
そう思えれば、もう一歩踏み出すことができる。
「ともかく始めなければならない」と自(おの)ずからなるのだ。
そして、「ある」「十分ある」という感覚は幸せの元でもある。
私も日本も「ある」「十分ある」経験をしてきた。
そして、始めることもできた。
幸せだ。
楽しい。
冒頭の一節はこう書き換えよう。
働けど
働けどなお 仕事終わらず
ぢっと心を見る
楽しい。
そして幸せだ。
”私はある”と気づいたから。