japan-energy-lab’s blog

日本エネルギー研究所・関孝男です。

「汚れちまった哀しみに」



 

誠意と善意との違いがわかりやすい。

 

コミュニケーションのずれの問題とも関わるし、

歴史や文化を知る手がかりにもなる。
何より、自分を省みる機会となった。

中原中也の言う「汚れちまった哀しみ」は、ここに起因するんだろう。

 

以下長いが、「根源へ」執行草舟講談社)p.152〜4を引用する。

 

 誠意は、相対価値で、絶えず変化し、これが誠意だなどと決めつけられるものはない。・・・

 では、誠意と混同される善意とは何か。それは絶対的な正義。つまり、絶対価値としての善を他者のためになると信じて押し付けたり、または、勝手に行うことを言う。戦後に民主主義を移入された時、ほとんどすべての人がこれに飛びついた。平等意識の強い人ほど強く握りしめた。善意を持てば、無条件に自分が秀れた人物になれるように錯覚したのだ。しかし、これが社会的な判断力を失う結果となってしまった。

 善意を振りかざせば、皆正義の人となれる。簡単に自分が正しい人、良い人になれる。この考え方を戦後の民主主義思想は誰でも手にすることができるようにした。したがって現代の日本人は、すべての人が善人、正義の人になったと言っても過言ではあるまい。

 絶対価値は、全く他との相互関係を必要としないから、知らず知らずに、自分が勝手に考えていることだ正義となってしまう。

 昔は善人とは、馬鹿者または役立たずも意味していた。かつての村社会でも、現代社会でも、善人は何か格別の役に立つわけではない。人間関係の上手くいかない者、家庭が上手くいかない者の多くは善人と言ってもよい。

 善人は絶対価値と自分を勝手に同一視し、自己と融合させて、他者には通じない勝手な世界を、個別につくってしまう。神の領域である善を、わかったつもりになっている。

 ・・・

 人を愛すること、人を好きになることは善である。しかし、それをがむしゃらに遂行すれば他者は迷惑する。人を好きになったなら、相手からも好かれるようにする方法論が必要となる。その方法論を模索することが誠意を生む。「初恋は失恋しなければ一人前になれない」と言われている理由はここにある。相手に伝わらなかったことから誠意への模索が始まる。人は初恋によって、それを悟らねば大人にはなれない。初恋は、他者に対する善意の「初押し売り」でしかない。

 昔はこの辺で善意から離れ、誠意の発展を心掛けた。しかし現代は、善意を押し通すままに生きる人が多く、その結果、一人よがりな自己完結した世界を強固に作り上げていく人間が増えている。

 曲がりなりにも善を行いたいと思うならば、他者に通じる形を見つけ出すしかない。ほんの少し、その場、その時、その相手によって修正し、誠意を持って善を行なおうとすることである。

 ところがこの修正がほとんどの場合、表面上、悪の要素を持っているから、人は苦しむ。相手のためになるには、嘘もつかねばならぬし、だまさなければならないこともある。このことによって、人間は涙と呼ぶ、人生の哀しみを知っていく。誠意とは、善意とずれた部分の苦悩を自己の内部にしまい込む哀しみなのだ。

 自分が汚れていく過程の中に、他者を思いやる言動が生まれてくる。そして、どんなに朽ち果てても、他者に通じさせたいと思う心を持つ者を、誠意ある人物と言う。相手に通じるために、自分は汚れなければならないのだ。