japan-energy-lab’s blog

日本エネルギー研究所です。福島県川内村に炭増すためにも、木材の可能性について簡単ニュースをはじめてみます。

「愛か恐れか」




表題に関係ない気もする。

 

でも、ここにつながる。

 

 

さてまずはこちらをお読みいただきたい。

ameblo.jp

 

アメブロで書いていた時代の2年前のブログ記事。

 

こちらを読んだ前提で書く。

 

取材依頼が2年経ってまたある。

 

お断りをした。
人を介してもお断りもした。

 

また来るかもしれないのでブログでも取り上げることに決めた。

関係者もいるので迷ったが、これはこれで大事な話だと思い、決断した。

 

 

 

断ったのは、

嫌な思いをしたから。上記ブログの通り。

 

それもそうだけど、それだけでなかった。

もう一つあった。

 

謝罪すれば思い通りになると思っているのだろうか。

もちろんそこに善意はあるけど、腑に落ちない何かを感じた。

 

 

最近ニュースでアメフトの話題がずいぶん取り上げられている。

あの篠竹監督含めてその件も書きたいが省く。

この件でわたしが思うのは、

組織で具体的な指示があろうがなかろうが、その空気があったことは間違いない。

 

スポーツだからわかりやすい図式にしやすいが、

ずっと続いてきた会社組織の不祥事も

同じ形(相似象)をしている。

 

 

組織を守るために個人が犠牲になることで、

組織の不健全性が続き、利権構造も続く図式。

 

人を介して言ってきた小賢しさにも頭にきた。

しかもわたしの上司にあたる人。

向こうさんは上司から言われたら逆らえないだろうとでも思ったのだろうか。


なんでもう一度直接わたしに言ってこないのかと。

 

大企業の傲慢さをまた感じたところ。

 

 

変なことを言うようだが、報道の方々はわたしに執着する必要もない。

わたしの取材がないくらいでジタバタしなくていいのになあと思う。

もっと面白い方はこの地域にはごまんといるのだから。

まして、企業なのだから、敵がいるのは多少はどこでもある話。

 

 

 

 

2年前のことを許してないかといえば、そうでもない。

もう過去のことだ。

 

理屈で割り切れないのが人間で、それでもいい。

直感を信じて行動することは炭焼きからまさに教わったことだし、

コツ塾でも「考えるな感じろ」Don’t think, feel!を教わった。

 

それができる背景は

恐れよりも愛で生きると言うこと。

 

愛で生きていることも再認識できたし、

恐れも必要なことはこの詩から直感的にも理解できる。

「見るまえにとべ」

ameblo.jp

 

 

 

また、「断る」という実際の行動を見て

許してないと思われるかもしれない。

 

愛とは、自他を信じること。

 

その取材の企業に対して愛がないわけではない。

 

もしわたしが謝罪を受け入れていたら、その企業は永遠に変わらない。

小さな組織なら改善できるだろうが、大きいところはそう簡単ではない。

それで、小手先のことを変えたところで根本は変わらない。

相手のためにも受けないほうがいい。

その種類の愛だ。

 

もったいないと言われる方もいるだろうが、それで魂を抜かれるよりマシだ。

魂を抜かれて生きることもしてきただけに、その滑稽さもよく理解している。

 

念のため、歴史背景についてはこちらを参照。

 

https://ameblo.jp/japan-energy-lab/entry-12171492868.html

 

 

 

さて、上に書いた

 

組織を守るために個人が犠牲になることで、

組織の不健全性が続き、利権構造も続く図式。

 

これをどう変えたらいいのか?


革命を起こすことをずっと考えてきた。

それも一つかもしれないが、今まで続いた歴史背景もある。

 

それは長くなったので、またの機会に譲る。

 

「無為 ~楢葉にて⑴~」

 

 

 

昨日は朝礼で

ズボンを買ってくるよう指示が出て

 

そんなことイワナいで!

とも言えず、

富岡へ。

 

 

ついでだから、楢葉の「結のはじまり」へ。

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写真は以前のもの。



 

女将の古谷さんの誕生日やら田んぼアートやら田植えやら

イベントぎっしりながら、行けそうもないなあという思いもあった(といえばあった)

 

 

行くとも イワナ いで行ったもんだから、

案の定迷惑をかけてしまった。

古谷さん遠藤さんはじめ炭ません。

 

 

その後、田んぼアート楢葉の会場を見ようと行くも場所がわからず断念。

木戸の公民家にたどり着くと、あの男の軽トラが!

 

恐る恐る中に入ると暗がりに二人の影。

 


田んぼアート市川さん。
AFWの吉川さんと。

 

ホッとして

だべる。

吉川さんとわたしで。

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その後、家庭のある吉川さんとは別れ、

市川さん行きつけのラーメン屋に。

 

黒味噌ネギラーメンは最高に美味かった。
また行きたい。
(ちなみに白河に続きラーメンづいている)

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中学生の前でも話をされた

田んぼアート 市川英樹先生

 

 

 

本気で30万人を田んぼアートで呼ぶと豪語する男。

 

楢葉で田んぼアートができることについて話をした。

 

当然ながら、市川さんが結のはじまりにかかわったからこそ、

楢葉での田んぼアートも実現した。

そしてまた多くの力を借りていることも話を聞く。

遠く海外からも参加される方がいるという!

 

 

うむ。

 

老子のこの話を思い出す。

 

田口佳史氏のこちらの本より

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居位第六十には、冒頭以下の文がある。

 

大國を治むるは小鮮(しょうせん)を烹(に)るが若(ごと)くす。

 

解説には、


大国をうまく収めようと思ったら、小魚を煮る時の要領を真似ることだ。

それは、手を出し過ぎてひっくり返したりいじくり過ぎていると、身が崩れてバラバラになってしまう。

これは人間の集団、会社の部門や家庭を動かす時のコツだよ。

 

 

田んぼアートでは市川さんが

助けてくれる方にアレヤコレヤと指示を出すわけではない。

こういうことをしたいと。

それでも自発的に人は動く。

 

例えば、

吉川さんはずいぶん動かれていたようだ。

 

他にも陰に陽に力を貸す方がいて成り立っていると聞く。

 

 

老子に戻ると、居位第六十のまとめにこんな言葉で締めくくられる。

 

 

何事も、手出し、口出しをし過ぎると、うまく行くべきものも、そうならない。

自然の力が入り込めないからだ。

この世に充満する気や力を如何に活用するかだ。

 

 

手出しや口出しは、ある意味で自然の力を信じていないことにもなる。

 

自然の力を出すことを、鬼に出番を与えないことに例えている。

 

リーダーがあれこれ指示を出し過ぎることがなければ、

鬼はすごい神の力を持っていても、力の出しようがないから人を傷つけず、自然徳に帰って行くと。それでうまく行くのだという。

 

自然の力を引き出すには、「無為」。
作為も人為も捨てて、緊張感を持って見守るようにすること。

 

自分のできること、人事を尽くす。

自然の力を信じる、天命を待つ。

そして、その行間にあるのは無為。

作為も人為も捨てて、緊張感を持って見守る。

そのことで自然の力を引き出す。

 

無為にすることが私は怖かった。

それができなくて、あれこれと手出し口出しをしてきたのだった。

ただただ、不安や恐れから現れたことだった。

 

 

自然と切り離されて生きる都会では、

人為的な物に溢れて自然の力が入り込む余地がないのかもしれない。

 

人の力も偉大だが、それでは片手落ちなのかもしれない。

自然に充満する力を遺憾なく発揮してこそ、大事はなされない。

 


結のはじまりも木戸の公民家も同じような図式も見受けられるし、

 

 

先日伺った

Cafe ENAMONの青砥さんの姿もそれに近い。

決して過ぎたことは言っていない。
(もちろん必要なことは言っている)


 

japan-energy-lab.hatenablog.com

 

 

 

 

これからの自分にも必要なことを
田んぼアートや結のはじまりなど、訪れた楢葉で発見することができた。

 

「白河 コミュニティカフェEMANONへ」

 



コミュニティカフェEMANONへ行く


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http://emanon.fukushima.jp

 

 

 


こちらの青砥さんに会うために。

 

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写真
中央左が
室長の青砥さんと
両サイドがぺんぎんナッツさん

昨年末のふくしま大交流フェアではコミュニティづくりのコーナーで

ご一緒した時のもの。

 

 

たまたまCafe學校(Cafe Amazon)に参加いただいたこともあり

いつか行きたいと思いながら、

なかなか行けなかったが、

とうとう行くことができた!!!

 


とてもいい時間だった。

 

若い人がこんなにいたのか!

と驚かされた(笑)

 

 

場づくりについては、たくさんの示唆を得たので備忘のためにも記録する。

あえて3点にまとめると以下になる。

 

⑴丁寧さ

⑵柔軟さ

⑶やるさ


以下簡単に述べてみる。

 

⑴丁寧さ

 店の作り一つ一つも、商品一つ一つも、丁寧に作られている。

 椅子やテーブル、照明もこだわりが感じられるし、

 飲み物や食べ物・デザートも一つ一つが丁寧に作られていた。



⑵柔軟さ

 イベントの時間の取り方はなかなか難しいが、話が展開できるキーワードが出やすい仕掛けも自然と身につけて来たのだろう。

 カードに「接続詞」だけ書いてあって、「せめて」とか「中でも」など、普段意識においていることを話しやすい場づくりの視点は盗めるところは盗みたい。

 

 

⑶やるさ

 これはちょっと無理のある言葉だったが、韻を踏んだということで。

 

 年末のふくしま大交流フェアで青砥さんがおっしゃっていた

 「やる」と言う言葉が私は印象的だった。

 「やる」と決めてしまえば、難しいことだろうとなんてことはない。

  

 言い換えれば、何をやるか、何を大事にするか、さらに、何を大事にしないかが明確に貫かれている姿勢も感じ取れた。大事にしなくてもいいこともある。そこは後にしたり、他のスタッフに任せながら準備して、大事にする場面では忙しくても時間を取る。

 普段からそういったものを意識しないと忙しさに流されてしまう。

 大切なものを大切にするのは、言葉にすると簡単だけど、実際にはとても難しいこと。

 実際の姿からその部分を学んだ。

 

 

 

そして、何よりここを大切にする気持ちが存分に現れていた。

 

若い方が入って教育の場としても生き生きしたものになって来ていることもうかがい知れた。

 

 

若い方に混じって40代のおじさんは変に遠慮もしてしまったなとも思う。

 

 

 

 

また寄らせてもらいます!

 

「誰も聞いてくれない」


物騒なタイトルかもしれない。


先日

久しぶりに
かわうちの湯へ





体重記録はこの通り。


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これは何のため?と思う方もいるので。

 


私の仕事は体力勝負。

 

体力をつけることが目的。

そのための一つの指標が体重。

それは、重いと動きが悪くなるから。

 

体重を減らすことが目的ではないけど、

体重が目的たる体力維持のバロメーターになるから。

 

プールもGW期間をはさんで行ってなかったので、そろそろスタートだ。



 

さてさて。

表題の話に。

 

かわうちの湯で、筋肉をほぐして脱力しながら入浴していると、

瞑想のような状態になる。

瞑想することは感じること。

自然コツ塾で学んだワークが始まる。

 

それは感情を吐き出すもの。

 

過去の感情は自分の本当に求めているもの(ニーズ)と結びついていることもあるが、

思い込みに気づく機会にもなる。

 

最近とみに感じていたことが表題の思い込み。

 

たまたま妹とも電話で話したんだけど、

母の癇癪を起こさないように、いい子を演じて来たぶん、満たされないものも多かった兄である私。

一方、妹は兄の比較で言えば、手のかかる子だったので、愛情を受けて来たと私、兄は思って来た。

それぞれ兄も妹も無い物ねだりをして来たわけだが、

それはさておき。



「誰も私の話は聞いてくれない」

 

これは

 

「本当の自分を出したらいけない」

 

という思い込みとも言える。

 

信念の書き換えをするときにある定型文で言えば

 

「ありのままの自分であってはいけない」

 

 

 

これを

 

「ありのままの自分であっていい」

 

に書き換えるワークをした。

 

 

スッキリした。

 

時間が経たないと成果ははっきりしないけど、

誰しも持ってしまった思い込みは外すと

生きるのが楽になる。

 

誤った思い込み(信念)は生きるのに余計なもの。

 

ニュートラルになるというのは

いい悪いの二元論から離れることで、

ある意味で老子のいう「赤子」のような生き方にも通じる。

  

 

無為 〜GWに学んだこと⑵〜

こちら雨降りですが、
BGMはこちら


新しい朝 サンボマスター



今回は、 

 

japan-energy-lab.hatenablog.com

 
この続き。





礼を重んじて生きてきたことに気づく。


この本からね。

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老子本は
今までもずいぶん読んできたけど、
感じ方が今までと違う。

この本が…もあるけど
自分が変化したから…が大きいか。

それで
礼とは目に見えること。
礼儀って言うけど、挨拶とかのこと。

けど、それって、
見返りを求める部分が多いし、
時にそれはルール、法律にもなりがち。

目に見える形を意識して学んだ時代を思い出す。

それはそれで大事な訓練だったけど、それだけではすまないんだよね。

それで全てだ!って思ったら堕落がはじまる。

身を以て痛感するところ。




論徳第三十八には


徳仁義礼と言われる。
礼よりは義。義よりは仁。仁よりは徳。

さらに
徳よりも道だと老子は言う。

道って何か?って色々な表現があるけど、
無為に尽きる。

無為については、

爲政第三十七にこんなことを書かれている。

道は常に無爲(むい)なれども、而(しか)も爲(な)さざる無し。


「道」は作為的に、人為的に何かをやろうということは全く無い。

だから行えないことが無い。

 

とさえ言う!

行えないことが無いとは!!!

無為とは何か?

 

歩き始めの幼児に寄り添って歩くように、”緊張感を持って見守る”ことだと言う。

 

 

解説を引用する。

 

暮らしの中で言えば、一日の中にも流れがある。

仕事でいえば、快美の中にも流れがある。

スポーツでいえば、試合の中にも流れがある。

この流れを緊張感をもって見守ることだ。

それが無為だ。

そうすれば、高速道路の流れに入るように、円滑に進むのだ。

 

自分がこうありたいというものをしっかり持った上で、

緊張感を持って見守る。

しかも、
歩き始めの幼児に寄り添って歩くように!

 

それでいい。

 

自分の思い通りにしようなんて思う必要さえないのだ!

 

 

さらに自分の思い通りにしたいという欲が出た時の対処法も書かれている!

 

 

 

化(か)して欲作(おこ)らば、吾(われ)將(まさ)に之を鎭(しず)むるに無名の朴を持ってせんとす。無名の朴もてせば、亦(また)將(まさ)に欲せざらん。

「無名の朴」に帰れと道はいう。

朴とは、切り出した木の事。

まだ修行中の身であった頃のやるせない自分に帰れば、その欲が過度なものなのかが解ると。

 

 

これはすごい考え方だ!

 

いかに自分の思い通りにするかばかり考えてきたけど、

それって全く間違っていたことに気づかされる。

 

人為、作為はうまくいかない!
無為自然という言葉は、
無為にすれば、自ずと然りの結果が得られるということ。

 

 

 

自分の身近に即して考える。

 

アレヤコレヤと悩んできたけど、自分にできることは限られる。

 

「人事を尽くして天命を待つ」なんて思い、できることを懸命にやってきた。

 

それも半分当たっている。
でも、半分は間違っている。

 

自分のありたい未来をしっかり持って、今自分に対してはできることをするけど、

相手に対しては全く求める必要はないのだ。

 

この、「相手に対しては全く求める必要はない」ができなかった。

 

相手に対して、こうしてほしいは伝えていい。
けど、それができないことを注意したり、仁に反する物言いをするのは不必要で、道に適ってない。

 

 




人にあれをさせようこれをさせようとしてきた自分を恥じる。

また、川内村炭焼きプロジェクトでは、何かしなければと焦り続けてきた。
でも、必要とされているなら、「道」はある。

 

 

 


ジタバタすっことねーべ

 

 

 


さらに!


論徳第三十八

には以下のような記述もある。

夫(そ)れ禮(れい)は忠信の薄(はく)にして亂(らん)の首(はじめ)なり。

 


世が乱れる前兆として、礼を声高に強制することが出てくる。

礼とはルールと解釈していい。
道徳を強制する今の空気感は行き過ぎているように感じる。

 

忠・信を大切にする気風が薄くなったことで起こるという。

まさに今がその時。
今という時代に自分が流されてしまったことを思い起こす。


 

つまり、今という時代は、世が乱れる前兆でもあるのだ。

道のない時代とも言える。
何が正しいのか正しくないのかわからない時代と言ったらいいか。

 

 

つまらないことに一喜一憂してしまっていた。

ともあれ、
今回のGWでの助っ人は最強ではあったが、
私自身が以前より、人をコントロールするのをやめた結果でもあった。

私が親方に文句言われないようにと
いろいろ口うるさく言っていたから今までうまくいかなかった。

今回多少でも無為に動いたことで、それぞれの人が自ら動いてくれた。

それは
相手を信頼する「信」でもあるし、
そのためには
自分を信頼する「信」もなくてはできなかった。


何も進んでないように感じることもあったけど、
少なからず成長していることも実感できた。



 

豊かさ ~GWに学んだこと⑴~

今回のBGMはこちら

サンボマスターの「これで自由になったのだ」

※注意※ 
※かなりロックです※

 

www.nicovideo.jp

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:embed]

まさに自由になった気持ちになったお話。

 

 

 

 

 


豊かさとは何か?

ずっと考えていた事に身をもって気付かされた。

 

きっかけはこちら

 

 

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以前もブログで書いた老子

 

ちなみに過去記事はこちら

 

japan-energy-lab.hatenablog.com

 

 

japan-energy-lab.hatenablog.com

 





老子の言葉として、こんな言葉が出てくる。

・・・足るを知る者は富み、強(つと)めて行ふ者は志有り。・・・(辯德第三十三)


解説には
足るを知るとは、常に感謝の心を失わないという事。そういう人が真の富者だ。…

とある。


足るを知る。

言葉としては良く知っていたが、本当の意味で理解していなかった。

現状に感謝する事。あるいは肯定する事。

 

 

 

 

あ!

そうだった!!


と思い出したのはこちらの本。

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過去に書いたこともあった。

 

japan-energy-lab.hatenablog.com

 




ニーチェは、忙しく働いて、暇をつぶすだけの人間である「末人」の出現を予言。
背景には人生には意味がないというニヒリズム虚無主義)がある。
つまらない日々が永久に繰り返される「永劫回帰」から脱却するには、

 

「今、この瞬間を力強く肯定して生きよう!」

と端的に言う。(著者の飲茶氏の超訳

 

別の表現をすれば、
「感謝して生きる」
あるいは
「足るを知る生き方」 とも言える。

 

 

老子ニーチェは洋の東西も時代も違えど、同じことを言っている。

 

 

今回、いわなの郷でのGW営業は多くの助っ人の力を借りた。
アルバイトとして協力頂いたということ。

 

その中に私の意と反する動きをする人がいた。

その人を自分の思い通り動くよう働きかけた。

 

それが当然と思ってきたけど、

仕事中、釣堀を見ながら紫煙をくゆらしながら気がついた!

あ!!!!!

 

 

先日、八谷さんの主催されているいわき学びカフェで学んだことを思い出す。
ドラッガーの著書の読書会だ。
ちなみにこちらの本。

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そして過去記事はこちら

 

japan-energy-lab.hatenablog.com

 

 

japan-energy-lab.hatenablog.com

 

 

 

 

第四章 人の強みを生かす の中には
「強みを手にするには弱みは我慢しなければならない。」(p121)とある。

 

それは、私の我を通すために、相手の強みを殺す事になっていた。

つまり、相手のその「弱み」を我慢、と言うよりは無視してよかったのだ。

果たして、相手がその通りしなくて困ったことはあったか?
否無い。
自分が思い通りにならなくて悔しいだけだった。

途中で気づいて、情けない気持ちにもなったが、そこは気持ちを立て直してその日を終える。

 

 

改めて振り返った時に、

そんな気づきに満ちている今の生活がとても嬉しく思った。

 

過去の失敗を振り返る機会になる以上に

ドラマチックな日々に満ちている。

ありがたい!

 

ニーチェのいう永劫回帰の日々では無い。ニーチェの言葉を使えば、時代が持つ人を不自由にする思い込みのことである「背後世界」や弱者の嫉妬(ルサンチマン)から生まれた「奴隷道徳」からも解放される日々を送ることができている。

 

感謝だ。

 

老子のいう「足るを知る」

ニーチェのいう「今この瞬間を力強く肯定して生きる」


そうだ!

豊かだ!

 

私は豊かだ!

 

 

お金があるから

豊か

ではない。

断じてない。

 

豊かさとは

足るを知る

肯定できる

そのこころ

その意志!

 

すでに

豊かだったのだ!

ずっと前から豊かだったのだ!


 

これで自由になったのだ~~~

 

 

 

最後に、

上の老子の一節を再度引用する。

 

 

・・・足るを知る者は富み、強(つと)めて行ふ者は志有り。・・・(辯德第三十三)

 

解説は続きがある。

 

・・・大富豪や大金持でもいつも不平不満で心の満足の無い人は、富者とはいわない。むしろ貧者だ。道の精神こそ感謝の心で、それを強化して生きる者こそ、大志の持ち主と言える。

 

 

足るを知るの心(道の精神こそ感謝の心)で、それを強化して生きれば、大志の持ち主だと言う。

まだまだこれからの川内村炭焼きプロジェクトも、

感謝の心を強化して生きる事で、その道も見えてくるものと信じる。

 

 

「上善水の若(ごと)し」

 

 

老子についての田口佳史氏の著書
「ビジネスリーダーのための老子道徳経講義」

 

ビジネスリーダーのための老子「道徳経」講義 | 田口佳史 | 致知出版社 オンラインショップ

 

昨日もブログに書いた

 

japan-energy-lab.hatenablog.com

 

 

 

水の生き方が少しわかった気がした箇所がある。

 

虚無第二十三には

驚くことが書いてある。

 

故に
道に従事する者は、
道ある者には道に同じくし、

徳ある者には徳に同じくし、

失へる者には失へるに同じくす。

 

 

「道」を信条として生きる者には道に生きる者同士として付き合い、

徳を大切にしている者には徳を大切にしているどうして付き合う。

道も徳もない者には、無い者どうしとして付き合うことだ。

 

意見が合おうが合うまいが、

「心の合うところを見付けて、

 心を合わせていく事こそ、真に能力のある者」

という。

 

最後に、こんな言葉もある。

 

信(まこと)足らざれ場、焉(ここ)に不信有るなり。

 

説明としては、

 

でも一つだけ、表面的に合わせているだけでは相手にすぐ感じられて、かえって信用を失うだけだ。心から相手の身になって、相手のレベルにへりくだって、心から付き合わないと、折角の友人を失う。

幼い児と話す時に、その子の背丈に合わせて、膝を折って話すあの感じだ。

 

 

 

 

相手に合わせるというのは、表面でなく、心から合わせる。

でも、考え方は皆違う。

だから、合うところを見付けていくのだ。

違ってもいいけど、どこかしら合うところが必ずある。

傾聴の「聴く」ということにも通じる。

この人とは合わせる、合わせないではなく、

どんな人とでも合わせることはできる。

全て合わせずとも、合うところを合わせること。


ここでは「水」と言う言葉を使ってないまでも、

水のように低きに流れ、濁ったところに進んでおりていくことにも通じる。

 

 

 

巧用第二十七には
善という言葉を用いて、心を合わせることで自然にうまくいくことが述べられる。

 

善の心で「道」と一体になった人の言う言葉は、トゲも傷つけることもなく人の心に自然に入っていく。…心と心の絆を結ぶことが出来る…

そうすると、その人ならではのすぐれたところが見えてくる。その人の得意の部分を引っ張り出してくれるから、誰だって能力がある優秀な賢い人になってしまう。(襲明)

したがって、「道」のこころ、善い心で生きている人から見れば、善人も不善人もない。不善人だって十分により善く用いることが出来る。…

 

善と言う言葉は、ここでは「道」に生きる人の意味で良い(と思う)。

上の「虚無第二十三」のように心から相手の心と心とを合わせていけば、どんな人も善用することが出来ると言っている。

 

 

「水」のようにどんなところにも入っていき、下へ下へと流れて、へりくだる。「触れ合う人皆師」の心で誰からも学ぶこと(易性第八)で、
心と心を合わせて、絆を結ぶことで、自然と上手くいく。

 

 

今までの生き方を省みる。

 

 

儉武第三十にある

 

物(もの)壯(さかん)なれば則(すなわ)ち老ゆ。是を不道と謂ふ。不道なれば早く已(や)む。

 

 人生においても壮年期は、年季も入り、慣れもあって、しかもまだまだエネルギッシュだから、いつしか強引に事を進めようとしてしまう。

 それは無駄に元気や精気を使ってしまうことになるから、早く老いてしまう。

 しかもそれは道の説く生き方に反するから”生命(いのち)”を無駄遣いすることにもなるのだ。

 

と述べられている。


まさにその通りだった。目標達成の山を登ることばかりしてきたけど、これからは水のように山を降りること、まさにあらゆるものが集まる「天下の谿(谷)」のように。